Zero Degrees
毎年1月から3月にかけてはコンテンポラリー・ダンスを見に行くのが習慣になっていたのだけれど、今年は諸所の事情で行けそうにないです。…とはいえ無理してでも行こうか。
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ステレオ日記 二つ目の哲学 従軍カメラマンの戦争
「シュルレアリスム運動体」系の成立と理論―「離合集散」の論理
■美術の物語■
林道郎さんも共訳として参加しているエルンスト・ゴンブリッチ『美術の物語』が、ファイドン・ジャパンから今月発売になるそうです。英語版は発売から50年以上、16版700万部を売り上げ、近頃ペーパーバックが出ましたが、今回の邦訳ではこれまで版元も気がつかなかった図版の間違い等を発見したとか。また最近変更が相次ぐ海外作家のカタカナ表記の最新版が反映されているそうです。
http://caina.jp/commodity_detail/82717054/
■美手帖
次号の美術手帖の特集に関して、ちょっとだけリサーチのお仕事しました。
いろいろ編集部にはお世話になりました。
new year
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
photogprahers' gallery講座の方も続けていきますのでどうぞよろしく。
1月13日、今年最初の講座は前川修さんによるステレオスコープ講義です。
実際にヴューアーを使ってステレオ写真を見る体験型のレクチャーを予定しています。
■第8回photogprahers' gallery講座■
「2.5次元のリアル――ステレオ写真の快楽」
講師:前川修(写真論・神戸大学助教授) 司会:斎数賢一郎
2007年1月13日(土) 18:00〜
受講料:2000円 定員:15人
19 世紀の写真の流通経路に、絵葉書や肖像写真に並んで、ステレオスコープがあった。ステレオスコープとは19世紀前半に開発された科学的実験装置であり、これが当時発明された写真と結びつき、ステレオ写真が爆発的に流行することになる。やがてステレオ写真は、科学、軍事、観光、教育、娯楽など、さまざまな用途に応用され、視覚文化のひとつの中心を形成した。
そもそもステレオ視は、遠くのものを目の前に近づけつつも、鼻先で微妙な距離を保つことで、どこにもない立体像を生じさせる見方である。しかし、当時その像をつうじて欲望されていたのは、現実の世界を触れるように確かめることでもあった。ところがその確からしさは不安定であるがゆえにかえって生々しい確からしさでもあった。3次元未満2次元以上の奇妙で強烈な現実感、ステレオ的視覚が、「見る」ことに憑かれた19世紀の視覚メディア(パノラマ、写真、映画など)のあいだで、あたかもステレオ像のように不安定に浮遊しつづけていた理由はここにあるのかもしれない。
このレクチャーでは、ステレオ写真を見ながら、こうしたステレオの起源とその快楽について考えてみたい。
▼詳しくは下記WEBページをご覧下さい。
http://www.pg-web.net/home/pg_lecture/2006/08maekawa.html
続いて1月27日は林道郎さんによるコンセプチュアル・アートと写真に関する連続講座が始まります。
■第9回 photographers' gallery講座■
連続講座「不確定地帯――コンセプチュアル・アートと写真」(全5回)
第一回「概論――『芸術の非物質化』(ルーシー・リパード)を手引きとして」
講師:林道郎(美術批評)
司会:斎数賢一郎2007年1月27日(土) 18:00〜
受講料:1000円 定員:25名※詳細は追ってお知らせします。
二月に予定している第10回、第11回はそれぞれ古屋誠一さん、林道郎さん(第二回)です。
三月は平倉圭さんによるゴダール連続講座(全3回)を予定していますので、ぜひご参加ください。
http://www.pg-web.net/home/pg_lecture/index.html
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先日とある書店で『風の薔薇』1号から3号までを入手する。
特に第3号の「シュポール/シュルファス」特集は必見。
もはやその名前さえ記憶から消えつつある美術運動だけに、
貴重ではある。
松岡正剛編集『遊』1008号もあわせて手に入れる。
遊び心たっぷりだが内容は充実。
1979年だけあって、時代を感じさせるデザイン、そして広告。
それが面白い。
写真家では藤原新也、大西成明、杉本博司も写真を掲載しているけれど、なんだか変な組み合わせだ。
巻末の「遊人紹介」では、この雑誌の同人の写真が載っている。
戸田ツトム、秋山邦晴、木幡和枝(若い!)、荒俣宏、灰野敬二(丸い!)、楠田枝里子(濃い)など、これはこれで貴重な写真かも。松岡正剛はちょっと「陽炎座」の頃の松田優作っぽいが、小林亜星はほとんど変らず。
タイガー立石も遊人だったとは。彼が「観光芸術」をやっていた頃のこと、最近知りました。
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クロード・ランズマン『ショアー』を通しで見る。
あわせて『ショアーの衝撃』も読む。
床屋のシーンが以前の記憶に残っていたが(多くの人がそうらしい)、ひところの印象とは違って、今回は関心を持ってみることができた。
議論の矛先が「表象不可能性」にシフトすると途端に内容が矮小化されてしまうように思う。