林道郎さんの連続講座、「不確定地帯―コンセプチュアル・アートと写真」の第一回が終了しました。


今回は初回ということでコンセプチュアル・アートを概観したわけですが、日本ではほとんど紹介されることのないこの分野の作家を扱う、まずそこに企画としての目的がありました。なぜかというと、私の見通しでは、すでに「終わった」、あるいは「敗北した」と言われるコンセプチュアル・アートを、半ば紋切り型として受容してしまっているという側面があること。そして現在の美術作家・写真家があるコンセプトを扱うにあたって、ひとつのアートとして登場したこの時代の動向を知りうる機会が必要じゃないか、ということがありました。だから現代のポスト・コンセプチュアル・アーティストを取り上げることも考えたけれど、ひとまず60年代後半から始めたほうがいいし、後の布石ともなる。ただ、この時代の作家はあまりにも多く手法も多様なため、5回ぐらいやったほうがいいでしょう、そんな思いで林さんにお話を持ちかけました。


概論ということもあって、講座ではたくさんのアーティストが登場しました*1。それを基礎となる概念を基にして分かりやすく紹介していただきました。講座後に写真についてもっと突っ込んで話してほしかったという意見も耳にしましたが、コンセプチュアル・アートを概観する下地がほとんどないという現状からいって、前提をおさえる意味では必要な議論だったと思います。その後に具体的な作家の写真をみる方がその「突っ込んだ」議論ができるように思います。ですから私としては次回以降にご期待、という他はありません。


今回の論点のひとつはコンセプチュアル・アートをひとまずミニマリズムの流れから論じ、作者性の否定、アンチ・コンポジショナル、アンチ・リレーショナルを引き継ぎならも、身体に依拠したミニマリズムから現象学的側面を排除していく箇所箇所がありました。そこで「非イメージとしての概念」が提示されていましたが、写真はそれを再びイメージ化しようとして失敗している。次回登場するメル・ボックナーはそれを分かっていて、皮肉をこめて写真を使っている節があります。(たとえば「Misunderstandings」のシリーズなど)


「非イメージとしての概念」は空間化されえないものとして、無限大、無限小などの「無限」に関わり、林さんはそれをカントの数学的崇高になぞらえていましたが、それが気になってポール・ド・マンなどを読み返してみると、彼は「無限」を崇高ではなく形而上学だとしていました。つまり、崇高は「無限」ではなく「極大」であって、その全体性が把握されないといけないんだ、というわけです。私としては、コンセプチュアル・アートと崇高は似て非なるもの、互いに惹かれあうが相容れないものなんじゃないだろうかと思うのですが、「無限」の領域からカントの言う「延長」にまで達しようとすれば、コンセプトだけじゃなくアースワークのような物理的要因も必要になってくる。もちろんアースワークが成功したとは決していえないけれど、崇高の問題により近いのはアースワークではないでしょうか。これは崇高論の専門家に聞いてみるのが一番でしょう。


 ところで、コンセプチュアル・アートの「良し悪し」を判断する材料として、それがコンセプトなのか、その結果なのか、また皮肉にも彼らが否定したコンポジションなのかと問うとき、どうも日本で受け入れられているものは単純に言って三番目のもののように思えます。エド・ルシェが「Various Small Fires and Milk」の撮影角度から写真の配置にこだわる仕方はコンポジションそのものだ、という疑問は当然のごとく感じます。必要なのはその撮影角度と配置とがコンセプトにどう絡んでいるのか、ということを明らかにすることかもしれない。そうしなければ、審美眼的な判断によって、つまりグリーンバーグのような、事実かどうかは別としても「一瞥による」モダニズム的な判断力に支配されてしまう。


林さんによるコンセプチュアル・アートの中心的な議論は、次にあげられた「インストラクション」にありました。これは命令、指示書、マニュアルなどを指していますが、概ねコンセプチュアル・アートの基礎にはこの要素がある。


書きかけ

*1:主に名前としてあがったのは、カール・アンドレ、ドナルド・ジャッド、エド・ルシェ、メル・ボックナー、ロバート・スミッソン、ソル・ルウィット、ヤン・ディベッツ、河原温、ダグラス・ヒューブラー、エドワード・キーンホルツ、ジョルジュ・マチューナス、ジョン・バルダッサリ、