ゴダールの『映画史』全編を通しで見る。
過剰なまでの引用が目まぐるしく重なり合い、モンタージュされ、フレームを破壊していく。でもやはりブラウン管やパソコンのモニターで見るよりも大きなスクリーンで見るべき作品だとあらためて思う。通してみるとイメージの接続が立体的に見えてくるし、なにより楽しめて見られる。


笑ってしまったのは、たしか3章だったか、ゴダールが裸にサンバイザーをして、葉巻を吸いながらタイプライターを打っているシーン。ちょっとそれはありえない。しかもなにかのフレームを自分の顔に近づけて意味ありげな仕草をとるシーンはほとんど狂気に近かった。
というよりも変態にしか見えない。
あれはどういうことなのか、専門家の方に説明してもらいたいです。
何かの引用ですか?


誰かが指摘しているように、あの映画は西欧的カトリシズム一辺倒である、というのは本当のようだ。引用される映画は西欧圏のみで(唯一小津安二郎が登場する程度)、あからさまにアジアを抑圧している。2-Aの冒頭、「見るべき映画はますます少なくなっている」という台詞は、すでにアジアの入り込む隙を与えないということだともいえる。そして西欧的視点、といってもさらに限定されて「フランスから見られた西欧映画史」だと思いたくなる部分もある。イタリア映画が頻発するのも、どこかフランス的といえばそうだし、「イギリスには見るべき映画はないし、ドイツにいたっては映画すらない」などと暴言まで吐く。ひどく偏った映画史だし、歴史に複数形の「S」をつけたのは一体なんのためだろうか。そういえばこの「S」に対して連想形式に「SS」と続けてナチスを示唆してもいるけれど、ドイツは標的以外の何ものでもないのだろうか。


映画の終り方についても多少疑問が残る。フランシス・ベイコンの《ヴァン・ゴッホのための習作》、それが最後のイメージで、映画は終幕を迎える。なんでこの絵なのか。磔刑図で終らせなかったのはむしろ救いだが、でもなぜベイコンとゴッホなのか。