「ビル・ヴィオラ:はつゆめ」展2

 昨日の続き。ヴィオラ氏と中沢氏との対談から。中沢氏は作品の感想を「霊の視点で撮られている」と語った。恐山の映像もあったし、いたって素朴。ただそれ以上話が発展しないので不満を持つ。水の話をもっと聞きたかった。電子回路と水、そして表象との関連を。カタログに収録されたインタビューでその辺が少し触れられていたからよかったけど、読んだらもっと聞きたくなった。静止画像にも電子の流れが生じていて常に動いているのだとすれば、あなたは写真についてどのように考えているのか。高速度撮影して低速度再生する場合、それはショットであってフォトグラムではないのか。


 展示のほうは90年代を中心とした作品が10点以上あり、ヴィオラをまとめてみるまたとない機会であることは確かだった。特に面白かったのは《ベール》(1995)。ヴィオラにしては分析的な作品といえる。



 9枚の紗幕に両側から異なる映像をプロジェクターで投射したもので、手法はそれほど目新しいものとはいえないが、表象の「幕」を考える上で参考になった。
松浦寿輝『平面論』によれば、「投射」には四つの規制があるという。

  • 「投射」されるのは過剰なるものである。
  • 「投射」は防禦である。
  • 「投射」においては外部と内部がトポロジー的に反転する。
  • 「投射」は消極的な彌縫策である。


 自らに統御しえないイメージを外部へ流出させるこの「投射」は、次々に<幕>に向かって行われる。しかしこの「投射」がプロジェクタという他処から行われるという事実において、そのイメージは自らに同化しえず、むしろ禁じられている。しかもこのイメージは「わたし」が統御するのではなく、逆にイメージが「わたし」を統御する。「投射」とは松浦氏によれば鏡像ではなく「現実的なるもの」の<貌>であり、ぺらぺらな重さのない<像>であるという。<貌>は死が刻印された「物(la Chose-das Ding)」で、<像>はシュミラクルとして反復的に蘇生する狂気の生である。「投射」されたイメージ、<幕>は、それら二つを同時に持った存在として「わたし」にもたらされる。
 アラン・レネの『夜と霧』において私が死者たちに向けたリアルとは<貌>のことであり、それが磨耗していく感覚が<像>だった、と言い換えてもいいかもしれない。


 ではヴィオラの《ベール》においてはどうか。9枚の紗幕は正面で向かい合うと半透明の視界によって9つのサイズのイメージが重なり合ってみえる。ただプロジェクタとの距離から4枚目あたりから像は不鮮明になり、朧な影としてイメージを維持できなくなる。むろん紗幕自体も枚数を重ねることで判別不能になるから、ベールとイメージは4枚目を見るのが限界。反対側から見ても、同じことが言える。だがそれで十分だろう。4つの同じイメージの重なり合いは4つの「他処」からもたらされたイメージだと錯覚しもするのだが、「わたし」は統御しえない他者が4人いることになり、統御されるどころか四者に奪い合われる身に陥る。
<続きは明日>