バーバラ・ローズの『Autocritique: Essays on Art and Anti-Art 1963-1987』が届く。相変わらず各論文の初出が載っていない。これが伝統なのか、困ったもの。


建築と破壊―思想としての現代
現在まとめ中。


[news]
アテネ・フランセゴダール『映画史』全8章一挙公開2006年10月24日(火)>>11月4日(土)
[10月28日(土)および日曜・祝日は休映]


見たいけど見てない方、見たけど全部見てない方、見る気力がなかった方、おすすめです。

http://www.athenee.net/culturalcenter/schedule/2006_10/hidtoireducinema01.html



pg講座、第4回、第5回情報です。


●第4回 photographers' gallery講座  < 受講申し込み受付中 >

 講師:港千尋 (写真家)
 2006年11月11日(土) 18:00〜
 受講料:1000円
 定員:25名


●第5回 photographers' gallery講座  < 受講申し込み受付中 >
「写真論としての『建築と破壊』(仮) 」
 講師:飯島洋一 (建築批評)・三島靖 (編集者)・北島敬三 (写真家)

 2006年11月18日(土)  18:00〜
 受講料:1000円
 定員:25名


http://www.pg-web.net/home/pg_lecture/index.html




インターフンクショネン6号。表紙はブルース・ナウマン
激レア本のひとつです。


昨日はミニマリズムの会合でした。「Post Painterly Abstraction」展カタログは、50年代半ばイギリスのインディペンデント・グループが開催した伝説の展覧会「This is Tomorrow」展のカタログに影響を受けていることが判明。このグループに参加していたのはピーター・スミッソンやローレンス・アロウェイだった。その後アロウェイは渡米してキュレーションや『アートフォーラム』誌編集など、アメリカの批評の第一線に。


 60年代のアメリカは「美術史を一から学んだ人材が批評の領域に関わる」という状況が始まった時期で、現在ではそれがひとつのスタンスというか固定ルートになっている。逆に言えば、美術史を経なければ批評の領域に参入できない状況が出来上がっているという。もちろんアーサー・C・ダントのような変り種はいるけれど、大勢はそういうことらしい。
 一方美術雑誌は各誌の論客たちの傾向が固定し、閉鎖的であるともいえる。「日本にはアメリカのような内容の濃い批評が少ない」という意見もよく聞くけれど、むしろアメリカは批評が専門領域化したが故に充実していると言ったほうがいい。アメリカに批評が存在しているのは、それだけ向こうにはマーケットがあって批評を必要としているということだろう。アメリカ、特にニューヨークがアートの中心地であることはすでに無くなっているが、マーケットは依然として中心地でありつづけている。だから各国のギャラリーはいまだにニューヨークに支店を持ちたがる。アメリカにはコレクターが多く存在していて、そして美術館も作品をよく買っているというのが理由のようだ。
 昨年のこと、デミアン・ハーストはロンドンのサーチ・ギャラリーともめて結局契約を破棄したが、それと並行してNYのガゴシアンではハーストの展覧会が開かれ、作品は会期の初頭であっという間に完売した。余談だけれど、ハーストにしてはペインティングが多いなとガゴシアンで見て思っていたが、契約が破棄されて以後、サーチは「The Triumph of Painting」展を開き、収集方針を一変したことを大々的に知らしめた。ガーディアンやデイリー・テレグラフなどイギリス各誌はこの反動的な言祝ぎに苦言を呈していたが、アメリカはまさに今ペインティング花盛りといえるほど絵画に満ち溢れている。これもマーケットの論理が働いたのだろうか。
 潮流はすでに衰退期に入っている。いま国立国際美術館で開かれている「エッセンシャル・ペインティング」展は市場を求めてやってきた在庫処分セールといったところか、と勘ぐるのは考えすぎだろうか。だってデュマスもドイグもタイマンスも、注目され始めて10年ほど経っているわけだし。