写真と日々
いくつかは別のところで読んだものがある。
松江泰治論とリヒター、ティルマンス論を中心に。


松江泰治は「高解像度のエロス」と「絶対ピント」だ、という。
カールトン・ワトキンスのステレオ写真を引き合いに出して、視点の浮遊感と写真の中に“ダイブ”することが可能になるような解像度、それが視覚的な触覚性をもたらす。それらを生み出す技術とは、絶対音感のような「絶対ピント」。「絶対音感が一音の自己同一性において調性から離脱を可能たらしめ、自然界のすべての音響を音階として聞く貧しさが、逆にあらゆる自然音響を等しく音楽として聴取させるように」、絶対ピントは平均化することのない細密な画像によって触覚性を生み出す、と清水氏は述べる。


浅浮き彫りを細密に眺める感覚に近いような印象を受ける。ただ、白黒とカラーの対立はない、としている点が少し気にかかる。対立はないかもしれないけれど、色の効果も問題にされていない。木々のもこもこした感覚は高解像度と絶対ピントの性質とはいえるが、そこに色は関わっていないのか。そんなことはないと思う。だが清水氏の松江論も松江泰治との対談でも、カラーそのものについては避けられている。カラー写真は拒絶反応が多い、カラープリントは決してピントが合わないのでデジタルプリントで調整している、などは言及するが、それ以上踏み込んでいない。色は音楽でいう「調性」にあたる部分だから、「絶対ピント」論からは拒絶されている、とも言える。