分析における弊害

確かに僕には絵画に対するフェティシズムのようなものがあって、それは第一に絵具であり、固体でもあるし液体でもあるあの質感からまだ離れられない。
この種のフェティシズムは作品を分析するときに厄介なもので、しばしば絵具のうねりを見て呆けてしまうことがある。「すきなものはすき」で終らせてしまいそうになるところが、かなり危険極まりない。
じゃあ「具体」の人たちように大量の絵具を使ってぐちゃぐちゃやればいいかというと、そこまで節操をなくしたものはもはや絵具である必要性を感じなくなってしまう。*1
僕が絵画分析において格闘していたことは、まずフェティシズムを削ぐこと、削いだ後に残ったものから分析を始めることだった。
とはいえ、結局絵具というフェティッシュは頑固にこびりついていて、まだ完全に落とせないでいることは確かだ。


分析に耐えうる要素をみつけだす。僕なりに残ったもののひとつは色彩だったのかもしれない。ただ、色彩はひとつの刺激物に近く、隣接する色彩と共謀して性質を変えてしまう。そこがなんとも捉えがたい要素ではある。



話は飛んでしまうが、現在の色彩に不満がある作家は多い。一つの理由がデジタル化、いや、デジタルに起因はするのだが、むしろディスプレイから発する発光性の色彩にある。
反射ではなく自ら色彩を発するディスプレイは、光そのものであるだけに刺激が強い。しかも、刺激は「慣れ」によってより強い刺激を求めるようになる。パソコンやテレビのモニターを注視することが多くなるにつれて、ハイ・コントラストのものをより好む傾向になるのは必然的ともいえる。それはアニメにもいえて、以前に比べてパソコンの基本256色に近い色彩を使ったものが増えているように思う。
また特定の色彩は支持体によって鮮度や明度を変えるが、紙と異なりデジタルは記号の解釈によって様々に性質を変える。ネット時代になってそれが一般人にもよく分かるようになった。ホームページに設定した色彩が端末によってかなり違う、という体験は珍しいことじゃない*2
だから「ただしい色」という観念はすでにどこかに消えうせてしまったし、押しなべてドギツイ色彩を好み、よりキワドイ組み合わせを選択するということが当たり前になってきている。

*1:それは別として、「具体」の泥と格闘するパフォーマンスはけっこう好きだったりもする。

*2:このハテダの灰色に対してもかなりの不満があるのだが、別の端末ではどんな色をしているのか分からないので(もしかしたら僕の満足のいく色を出しているかもしれない)、対応の仕様がない。