…いずれにせよ、印刷物の表現の世界は「見えないものを見えるようにする」という論理で動いてきた、ということさえ頭に入れておいてもらえれば十分だ。


 ところがウェブの世界はそのように作られてはいない。そこではまず「見えるもの」の状態が定かではない。繰り返すが、ウェブページの本質はHTMLで書かれた一群の指示であり、ユーザーに見える画面は、それぞれのOSやブラウザ、さらにはモニタやビデオチップまで含めた環境による「解釈」に過ぎない。


(中略)


…だから、ウェブページを読むときには、従来のように「見えるものから出発する」という単純な前提を取ることができない。具体的に言えば、ウェブページの質を判断するときに、ひとつのOS、ひとつのブラウザ、ひとつのマシンで見たときの印象を基準にすることができない。ある環境 で極めて効率がよく、美しく作られたページが、別の環境ではまともに表示すらされない、というのはよくあることなのである。したがってこの世界では、ページの「デザイン」は、見える部分のみではなく、むしろ、できるだけ多くの環境で問題なく動き、できるだけ同一の外見を保つことのできるHTMLで書かれているのかどうか、見えない部分も含めて判断されるのだ。ここには価値観の大きな変化がある。印刷媒体では確固とした見えるものが出発点だったが、ウェブの世界では、まず複数の見えるものの比較検討から入らなければならないわけだ。*1


これは経験があるのでよくわかる。ウェブ制作のときに神経を使うのは、別のブラウザでみるとデザインが全く崩れてしまうことであり、またソース自体が他の同業者に比較検討されることだ。だから見た目のよいウェブページでも、ソースが非効率で、その中に無駄なタグなど入ろうものなら「あの制作者はあまり優秀じゃない」などと判断されてしまう。総合的な“配慮”の煩わしさは常に悩みの種だ。

それはいいとして、上記の引用箇所にはデジタルというものを捉える一つの足がかりとして重要なんじゃないか、と感じた。