マシュー

マシュー・バーニーの「クレマスター3」を渋谷アミューズCQNで鑑賞。
実はまだ観ていなかったのです。


象徴の過剰さはあいもかわらず群を抜いていた。一定の理解を逃すと途端に混沌へと陥る感じがある。プロットは巧みに道を示すのだけど、どれもこれもが行き止まり。袋小路の先で待っているのは肉と性器とワセリンと。やはり「拘束のドローイング9」より圧倒的にこっちの方がいい。が、バーニーを賛美する気にどうしてもなれないのは、たぶんアメリカ的なマッチョだからだ。

始まりと終わりに神話的な挿話を差し挟む手法は、バーニーの映像作品でけっこう使われているが、すこし映像として無理があったか。巨人はどこか巨人らしくなく、小人はどこか小人らしくない。そして小人の小屋にいる糸を解く女性は、小人の小ささに属しているのか、巨人の大きさに属しているのか、判別がつかない。女性の描写はとくに「3」では各要素であいまい化されている。それがクライスラービルとの対比で女性的な役割を担わされているグッゲンハイムも同じく、外観が示されないことで女性的要素を抽象化している。麗しきエミー・マランスは女性的な仕草をみせる刹那、爪をたて、動物化してしまう。

underconstructing...



いいかげんスミッソンにも目を向けなければ。
ああ、この人も考え方はマッチョだったっけ。