松江泰治『JP-22』。
巻末に清水穣さんの松江論が載っている。



現代を見つめていると、直近の過去ですら遠い存在に見えてくる。細かく見ていくと、差異が膨大な量出てくるからだ。それが50年、100年のスパンになると、すでに差異は天文学的数値になり、むしろ星座のように抽象化されて大きな事件だけが浮かび上がってくる。そうなると、私たちは体系化の誘惑に駆られて、歴史を「物語って」しまう。圧縮されたひとつの流れである時間を空間的に分割する、つまり写真的にするときにこそ、齟齬が生まれる。たぶんタイムスリップに失敗してパラレルワールドにたどり着いてしまったように、それは現実であって現実じゃない。だから写真を完全に信用してはいけないし、文章はなおさら信用できない。ヴィーコのように過去との相互介入によって不断の意味づけを織り成し、歴史を解釈することも、ディルタイみたいに現実の生活体験を抱えつつ過去へ没入し、追構成する「生の哲学」もまた、現在に根付いていることを確認すべきであり、ともすれば展示空間よろしく「すべてコンテンポラリー」になっていた、という過去への暴力もまた、あり得べき事実ではある。



購入書籍

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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鈴木データベース論、師匠直伝かぁ。

治安維持法小史 (岩波現代文庫)

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あくまで法学的観点からの治安維持法分析。
アカ狩りも転向問題も言論統制もこの法抜きで語れないわけで、精読したい。

戦時下の日本映画―人々は国策映画を観たか

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映画史研究に特化せず、国策映画の洗脳的要素一辺倒にもならなず、
社会史的に論じているところがポイント。