カーニヴァル

ひょんなことから実家に帰り、ついでに本屋へよったところ、めぼしい本がほとんどない。そもそも新書コーナーがない。ベストセラー本と雑誌のみが並ぶ本屋なんて駅売店くらいだと思っていたが。とにかく時間をつぶす本を探す。

鈴木謙介カーニヴァル化する社会」(講談社現代新書)。
けっこう薄い本だけど、分析的に社会を考察しているので各論単位で面白い部分があった。フリーターやニート液状化する労働観、データベースとの往復を繰り返す自己監視社会、ケータイ依存を高める自分中毒者、この三つを「再帰的な自己」が躁鬱状態を繰り返しながら推移する社会とし、そのことを「カーニヴァル」と呼んだ。カーニヴァルとは一種のお祭りで、「自己目的化する感動」を求めて各所でイベントを作り上げる。たとえばワールドカップ阪神優勝2ちゃんねるのオフ会などがそれだ。こうしたお祭りのことを右傾化する若者たちの新たなナショナリズムだとみんな誤解しているが、刹那的感動を求める=形式(ネタ)を通してのコミュニケーションであって、一種のロマン主義だとする北田暁大の主張を著者は採用している。


本書の核は、「反省的自己」と「再帰的自己」にわけて、90年代以降の世代を後者に位置づけること、そしてそこにデータベースが関与していることだろう。僕が本書を手に取って興味を覚えたのが、監視社会に対する視点。監視社会というと、決まってフーコーのようなパノプティコン、つまり権力者としての体制側が登場するのだが、本書はそれを通過してすでに監視が産業化していること、おそらく産業化のきっかけはオウム事件以降、つまり1995年から変化しているとしている。すでに「監視国家」ではなく「社会の監視化」が進み、監視する者はほかでもない自分自身であるという事態となっている。そこに登場するのがデータベース。フーコー的な規律社会は、細分化できないひとつの主体(身体)が服従の対象だったが、ドゥルーズ的な「管理社会」では分割不可能だった個人をデータとして細分化できる「可分性(dividuels)」を有し、それを蓄積して管理するのがデータベースというわけだ。問題はその監視する側がデータ化される側である当の本人であり、データベースはアルゴリズムによって蓋然的な自己像を提供してくれることにある。そこでの自己分析を再帰的に取り込み、「客我」のみで形成された自己を主体(自我)であると錯覚する。このループ構造こそ自己満足や一瞬の享楽に溺れさせるカーニヴァルを誘発し、かつ客観的にそれらを眺めたときに絶望することで躁鬱状態が生起する。


ところでデータベースとアーカイヴの違いって何だろう。アーカイヴはいわゆる書庫って意味だし、複数のものをまとめておくといった意味を含んでいるのだけれど、データベースは管理システムであるDBMS(Database Management System)が統括しており、プログラムなどでアクセスすることによってデータを有用な情報として引き出すことができる。それらをひとくくりにして「データベースシステム」と呼んでいる訳で、広義の意味でのデータベースはそのことを指している。では狭義の意味でのデータベースはアーカイヴといかに違うのか? アラン・セクーラの「身体とアーカイヴ」、読んでみますか…。

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)