クラウスのビデオ・アート論再読(1)
from left: Vito Acconci, Centers(1971); Richard Serra and Nancy Holt, Boomerang(1974); Joan Jonas, Vertical Roll(1972).
『オクトーバー』誌は1976年の春号が創刊号で、*1そこでクラウスは「ビデオ:ナルシシズムの美学」という論考を寄せている*2。アネット・マイケルソンとの共同主催としてこの雑誌を立ち上げたクラウスは、映画とは別に、70年代に一般に普及しつつあったビデオという新しいジャンルの分析を試みている。
この論考の要旨は、タイトルにあるように「ビデオのメディウムはナルシシズムである」ということを論証し、当時のアーティストがそのメディウムをいかに批評的に利用していったかを例証することにある。クラウスはまずビデオとそれ以外のメディアを分類する。絵画、彫刻などのジャンルはobject、物質的な要因に比重を置いているのに対し、ビデオは心理学的条件としてsubject主題を作品の成立要件としている、という具合に。そして、ビデオが関わっている「メディウム」とはスペシフィックな物理的支持体ではなく、広義のメディウム、つまり「霊媒」の役割を担うものだというのだ。
クラウスが扱う作品は主にアーティスト自身の身体を使って行われている*3。ビデオカメラとモニターという合わせ鏡の間に挟まれたアーティストの身体は、「テクストを括弧から外して(bracketing out)それを鏡の反映に代置する」ように、「自身に外的である対象とのいかなる結びつきも持たないものと解されるような自己」を提示する。
こうした「自己反映 autoreflection」をモダニズムの「反省性 reflexiveness」と比較し、前者を外的なシンメトリー、後者を内部からの根底的アシンメトリーの追求と区分する。要は後者がカテゴリーの分離性を強調するのに対し、前者はその分離性を融合へといざなうという帰結だが、論考の後半ではその融合を精神分析に鋳直すことで、ナルシシズムに接続している。
ビデオのメディウムとは心理学的な状況のことであり、他者の欲望を自我の欲望へと変換することで成立する。そこにナルシシズムの罠が潜んでおり、ある深いフラストレーションを生み出してしまう。他者から引き受けた欲望によって組み上げられようとしている構築物(自己の似姿)は、主体が根本的な疎外状態であることに気がつかせるのだが、それを認めながらも結局他者にかすめとられてしまう運命にある。
精神分析の接続による帰結は、フィードバックが時間性の意識と主体/客体の分離の意識を同時に“沈める”ことになり、「一種の重さのない転落」という表現をもってその構造を示している。クラウスはビデオを想像界として読み込んでいるが、ビデオ・アーティストたちの作品はこの永続するループに亀裂を入れるような、三つの作例を提示しているという。以下気力があれば明日か明後日に。