写真年表・リストづくりに奔走。
ミニマリズムの原稿の改稿もせねば。
off the galleryにしばらく書いてないし、
ピッチを上げて取り組まねば。



そのoff the galleryに、甲斐くんがフリードのジェフ・ウォール論について書いている。
原文にはあたれないが論考を読む限り、モーリス・ルイスとウォールとの比較、絵画と写真との演劇性と没入について、モダニズム的な、自律した芸術作品としての写真、などなど、「フリードらしさ」はいまだ健在で、時代によって論や用語の意味合いが変ってくるとはいえ、フリードが言うほどには美術批評と美術史の間に決定的な断絶がある、とは思えなかった。むしろ断絶があるのは絵画と写真、アートとフォトの溝だ。


結局フリードは写真というガラス窓の前で、ガラスについて語っている。
写真は写真だ、ガラスはガラスだ、というトートロジーについて。
だけどそのガラスの向こうで呼びかけている人々には“真に”眼を向けはしない。
ウィトゲンシュタインが言う「自然の断片(a piece of nature)」を退屈なものだと、ウィトゲンシュタイン以上に感じているからこそ、その断片が甲斐君曰く「外部」であることに気がつかない、もしくは抑圧する。そして「芸術家によってある正しい視点が与えられ」ることで、素晴らしい芸術作品となる。だとすれば、フリードが「near documentary」を重視したことは納得がいくし、少しリアルに近い、ちょうどよい深さのある仮構という意味での「near documentary」は、ウォールをそこまで知らない僕からでも、ウォールの言葉を意図的に誤読しているのではないかとすら思えてくる。ではウォールはなぜ「内省性 reflexivity」を絵画ではなく写真でおこなったのか。


甲斐君の結論、つまり美的鑑賞の手段としての、フリードのメディウム論。だけど、僕としてはむしろ表面からその先へ、外部へと関心が向かっている。というのも、モダニズム的な鑑賞形式は、ひとつの芸術世界を体験するという「快楽」に接近しているからだ。そこに一抹の疑念が湧いてきている。