最近のことだが、友人が「写真家には自分が作家だという意識が残っているか」ということを何気なく話題に出した。それは事後的に決定されるものか(歴史化されるときに発生するものか)、すでに写真家に意識化されていたものか。こうした議論もまた古い因習であって、過去何度も繰り返されてきたものではある。ジャンルによって差異があるし、こと写真になると「作」者という捉え方に抵抗を感じる人が多い。たとえば知人の撮った映画の中で中平さんが「写真は創造じゃないだろう」と語った言葉が印象深い。その是非に深入りする気はないが、創造と権利は不透明なところで重なり合い、すれ違う。見ることは権利であって、創造ではない/である。見たものは私の所有物であって、あなたのもの(…じゃない)。監視カメラの映像は誰のもの?監視カメラのものかもしれない。でも何かしらの制度が誰かを写真家として承認し、カメラから所有権を剥奪する。「あなたはシャッターを切るだけ」、…「“判断”はあなた方人間にお任せします。」
underconstructing...



スミッソンのメモ書きを粗訳してみたもの。途中まで。
ロバート・スミッソン
カメラの眼を通した芸術 (1971年頃)


 カメラに対して嫌悪感を抱かせる何かがあるのだが、それは多くの世界を発明する力をカメラが持っているからだ。何年ものあいだ機械的複製の荒野に置き去りにされた一人のアーティストとして、私は最初そんな世界というものが分からなかった。写真によって狂気に陥ったと言ってもいいような仲間たちを私は見てきた。アンダーグラウンドの映画製作者たちによる熱狂の到来も、安堵感をもたらしはしない。フィルム・アーカイヴの暗い部屋の中で、私の眼は完璧なフィルムというものを無駄に探しまわっていた。薄暗い酒場で、カメラの分かりづらくて難解な機能について議論したり、構造映画、無規制映画、ハリウッド映画、政治映画、作家の映画、宇宙映画、幸せな映画、悲しい映画、そしてありふれた映画の弁明を聞いた。私は映画を作りさえした。しかしカメラの世界の荒野は不明瞭だ。


 非現実の感覚にかられたアーティストはカメラの眼を疑う。「私の人生には十分影がある」と、写真を議論する中でカール・アンドレは断言している。「私は多くの写真を見てきたけど、これ以上それらを見ることができない」とマイケル・ハイザーは言う。「私は抽象映画を撮りたいんだ」、アンディー・ウォーホルは言う。カメラがまわりにある限り、アーティストは誰も当惑から逃れることができない。メル・ボクナーの『写真の理論』は“誤解”と呼ばれている。かつてシャトー・マーモントやサンセット大通りで、私はクレス・オルデンバーグと彼の『Photo Death』について話しあった。彼はそれを核実験場でかわいいファッションモデルを「シューティング(撃つ/撮る/狩る)」することに関わっていると言った。


 物理的な事物はヘリオタイプによって二次元の状態に運ばれる。暗い部屋の中、赤い光の下で私自身から分離した諸世界は化学製品とネガから浮かび上がる。最も堅固で触ることができると私たちが信じていたものは、その(現像の)過程でスライドやプリントになった。まだ手先の熟練度に関係しているアーティスト(何人かの画家や彫刻家)はカメラの危険な眼から逃れることができない。ギャラリーに蓄積され、新聞や雑誌に掲載されることを待っている大量のエイト・バイ・テン(8x10)のグロッシー(モノクロ写真)を考えよ。確かに、これらの写真のための隠れ家を見つけようとする、半ば発狂したアーティストがいないことはない。しかし、芸術のトーテムとカメラのタブーはそれらの写真に出没し続けるだろう。


 何人かのアーティストは、カメラによって生み出されたこの荒野を飼いならすことができる、などと想像するほど狂気に陥っている。その一つの方法は、衝動を写真やフィルムの抽象へ転移させることである。カメラは誰の手においても野生であって、それゆえ誰かが限界を設定しなければならない。しかしカメラたちには彼ら自身の生き方がある。カメラはどんな熱狂や主義にも関心がない。彼らは無関心な機械の眼であり、見えるところすべてをむさぼりつくそうと準備している。彼らは限界のない複製のレンズだ。鏡のように、彼らは我々の個人的経験を複製する力によって軽蔑されるかもしれない。そこにエゴのない“無限カメラ”を考えることは難しくない。


 スティルとムービーカメラの間のどこかに、私は無限カメラというものを仮定する (この仮定に結び付けるべき真の価値があるのではなく、それについて書くための何かとしてみなすべきだ)。


 私は『35ミリフォトグラフィー』と呼ばれた雑誌の1971年春号を見ている――「完全ガイド」と題され、そのカバーの内側には驚くべき広告があった。それは極地の水に半分つかったカメラの写真である。私はそれがどちらの極地で撮られたものか分からない。もちろん、カメラは日本で作られている――ヤシカのことだ。この広告の背景には氷山がみえる。「氷山のように、ヤシカのTLエレクトロXの偉大な部分は地表の下に隠れている。」 いま、これ以上に無限カメラを求めるものがあろうか?このカメラは「面倒な針、コイル、ばね、検流計など――あらゆる動く部分が取り除かれている。」 そのことを念頭において人が想像するのは、数え切れないほどの雪の吹き溜まりのスナップショットを撮るために、氷原のひとつを歩き回る幾多の旅行者である。
underconstructing...