雨が降ると、ぼくの両手は水気をなくす。
それは逆に手が乾燥することで、
雨が降りそうだと気がつくほどになった。


不快さはそれ相応だが、
不便なのはビニールの袋をあけられなくなること。
そして、ATMのタッチパネルが反応しなくなること。
爪を使う方がまだましなほど、手の摩擦力は減少する。



『クレマスター3』期間限定公開
特別企画『クレマスター・サイクル』ノンストップ上映

場所:アミューズCQN 7F シアター2(183席)
  (渋谷・明治通り宮下公園交差点前ココチビル)
   Tel. 03-5468-5551
   http://www.cineamuse.co.jp/

                                                • -

日時:7月1日(土)、7月2日(日) 2日間のみ 
12:00『クレマスター1』
13:00『クレマスター2』
14:50『クレマスター3』(途中20分間の休憩)
18:40『クレマスター4』
19:45『クレマスター5』


見てない方、どうぞ。

付記:残念ながらもう二日とも売り切れだってさ。3のみ、3日以降上映。



読書ノート


巧妙にも、彼はユダの行為の無益さを指摘することから始めている。彼は(ロバートソンと同様に)、毎日のようにシナゴーグで説教し、何千人という会衆の前で奇跡を行なっている師を確認するのに、使徒の裏切りは必要としない、と述べている。ところが、それが実際に起こったのだ。聖書に誤りがあると仮定するのは耐えがたい。世界史の中でもっとも重大な事件の中に偶然の介在を認めることは、やはり耐えがたいことだ。ゆえにユダの裏切りは偶然ではなかった。それは救済の営みのなかに神秘な場所を占める、予定された行為だった。*1

ニールス・ルーネベルクは逆の動機を、大げさで限度がないほどの禁欲主義を主張した。禁欲主義者は神の栄光を高めるために肉を卑しめ、苦しめる。ユダは精神に対して同じことを行ったのだ。名誉、善、平和、天国を捨てた。他の者がそれほど英雄的ではないが快楽を捨てたように。ユダは恐るべき明晰さでその罪を計画した。一般に姦通には愛情と献身が介入する。殺人には勇気が、涜神や不敬にはある悪魔的な光が関与する。ユダはいかなる美徳も関与しないあの罪をえらんだ。信頼の悪用と密告である。彼はきわめて謙虚に行動した。善人たるにふさわしくない人間だと自認したのだ。パウロは書いた。誇る者は主によりて誇るべし。主の至福で充分だったからこそ、ユダは地獄を求めた。幸福は善と同じように神の属性であって、人間が奪うべきものではないと考えたのだ。*2


少し前の話になるが、1700年以上前に書かれた「ユダの福音書」なるものが今年の春に解読され、ナショナル・ジオグラフィック社から英訳が出された。つづいて日本語訳も同社の日本支社から出されているが、その内容といえば、ユダの裏切りはイエスの指示によって行なわれたものである、ということだった。しかし不可解なことに、60年も前のボルヘスの小説には、同様の記述が既にみられるのである。従者イスカリオテのユダに関するこうした説がかなり以前から流布していたのか、それともボルヘスのなせる想像の産物なのか。ちなみに福音書自身が発見されたのが1970年代であること、ナショナル・ジオグラフィック社の発表では「イエスの肉体からの離脱を手助けすることによって、ユダはイエスの内部にある聖なる「セルフ」の解放を手伝ったと解釈される」と述べているが、なぜ肉体からの離脱をしなければならないのか、を若きボルヘスが明快に分析していることは、注記しておく必要があるだろう。



近代の超克

多分、現実的なインタレストを捨てざるをえないのは、死が不可避的なときです。芥川龍之介は「末期の眼」ということをいい、これを川端康成は大きく取り上げました。「末期の眼」に映った風景は美しい。なぜなら、そこには生きる可能性がある限り生じるようなインタレストがあり得ないからです。保田與重郎にとって、「美」は、積極的に何かを実現することを断念するところにしかあり得ないのです。*3

*1:ホルヘ=ルイス・ボルヘス「ユダについての三つの解釈」、『伝奇集』岩波書店、215頁。

*2:同上書、217−218頁。

*3:柄谷行人「近代の超克」『<戦前>の思考』講談社学術文庫、116頁。