”Framing” disorientation

イシオカさんの発表を拝聴。休むことなく3時間、議論に1時間、さらにその後の食事会に持ち越されても、彼は話し続けた。かなりの密度で、久々に知的な疲労感を味わった。一気に東京から大阪まで車を飛ばしたような、そんなドライヴ感だ。


大戦後のアメリカ美術においていくつかの転換点が存在するが、そこに何らかの形でメディウムの問い直しが発生している。グリーンバーグの絵画における「平面性」、スタインバーグの『Other Criteria』における「平台型絵画平面 Flatbed Picture plane」、彫刻においてはフリード『芸術と客体性』における「シンタックス」、ジャッドの「スペシフィック・オブジェクト」等々。さてそこでロバート・モリスに着目すると、彼の「制作(Making)」には同様の問い直しが含まれているのではないか。イシオカさんの論点はここにある。

面白かったのは、Donatello以来続く「制作プロセスにおけるオートメーション」という捉え方で、モリスはそれを「controlled lack of control」と著していること。対立する二つの軸(たとえば作者の介入/不介入)を同時におこなうために、時間性の秩序をモリスが導入しているのは、もちろんそこに演劇などの要素が入り込んでいるのは事実だが、むしろデュシャン的な意味での観者の役割が差し込まれている。「みるーみられる」「聴くー聴かれる」の混在。枠組みを解かれ微分化する要素を、さらにフレーミングし直す行為であり、そこでは一定の目的への方向性は既に失われている。絶えざる再発明を繰り返すことで、メディウムは制作の行動図式を強調することになる。

ただ、自己微分的性質をもつ一つのシステムの駆動源は、遅延によるのでもなく、フレーミングによるのでもなく、オートメーションにある。オートメーションの外部性によって、反動的にもたらされるフレーミング、そして再帰的自己言及性がうまれるのだが、オートメーションにあまりにも無批判である。恣意性を排除し、身体の行動空間との「有縁性 Motivation」樹立にオートメーションが強調されること自体、この機械神に身をゆだねていることのあかしである。ルウィットはオートマティックな「タスク」に起こる誤動作を楽しんでいる節があったが、モリスのそれは、誤動作をさらに(観者を代入することで)フレーミングし、止揚のない時間差ループを構築している。

そう考えると、どこかドゥルーズ的であり、「controlled lack of control」もブーレーズの「管理された偶然性」に、似てくる側面がある。ではこの両者との関係はいかに。