棚を整理していると、10年も前に書いた小説とも言えない言葉の束が、ごそっと出てきた。そのなかに幼少の頃の奇妙な体験をもとにした、リアリティについての話がひとつ。


記憶違いなのか真実なのかいまだにわからないが、確か小学2年の頃だったろうか。隣に住んでいる女の子が遊びに来て、母がホットケーキを焼いてくれた。おやつに甘菓子など滅多に出ない家だったので、僕はとても喜んだ覚えがある。母が早く食べなさいと言うのも聞かず、僕はホットケーキに乗ったバターが垂れるのをじっと眺めていた。茶色い丘からゆっくりと滑り落ちる黄色い塊は、ブラインドから差し込む光の縞にしたがって輝いては消える。


そのとき、僕は僕と女の子の「つむじ」を見ていた。バターのはずが、いつの間にか天井からテーブルを見下ろしていた。しばらく状況が理解できなかったが、自分の頭を見ていておかしなことに気がついた。すると、すぅっと天井から上昇し、暗くなってやがて部屋も見えなくなった。上昇した、というよりは部屋が小さくなっていく感じだ。どうやら家から空に抜けたわけではないらしい。真っ暗の中で遠くからかすかに声が聞こえた。自分を呼ぶ声、ふたつ。やがて目の前に母と女の子の顔が、ぼんやりと浮かんできた。


後付け的な脚色は否めないが(今ではその後付けも記憶の一部と化してしまった)、この記憶の原型に黒澤明の映画で再現された肉を切る音や、ちょうどその頃調べていた中国の死刑方式のこと、物憂い電車の中で明滅する街明かり、そして小学生に起こった癲癇の事件などを加えて、フィクションを書いた。それが先ほど出てきたのだが、あまりの拙さに吹いてしまった。でもこの記憶は確かなのか、いまだにわからない。幽体離脱なのか、それとも精神分析学で登場する症状のひとつなのか。



記憶違い、見間違い。それは虚妄なのか、抑圧なのか。
例えばレオナルド・ダ・ヴィンチ《聖母子と聖アンナと洗礼者ヨハネ》(1507〜08年頃、ロンドン、ナショナルギャラリー)の聖母と聖アンナの結合、聖母子の結合という怪異。前者は二頭の怪物を、後者は母の腕から幼子の生えるキメラをそれぞれ連想させる。

これは見間違いであり、見間違いではない。絵画上でこの二つの見方を容易にしているのは、ナショナル・ギャラリーでの保存を理由とした暗い展示方法であり、リオタール的に言えば絵画がまさに生きているのはこれらの怪物としてである。
その端緒は明確な細部が与えられていないことにある。認識できる要素をつなぎ合わせて日常性、つまり常態を模索するわけだが、例えば聖母の右肩の広さに比べて左肩の極端な狭さは、隣の聖アンナにまでその肩を延長する。次に聖母の右手の不在は、不自然な服の皺によってキリストの体に延長されて埋められる。

一度肯定してみるものの、しかしそれはありえないと内省するときに、恐怖が訪れる。しかし絵画においての恐怖は、以上のような裏切りにあるというよりも、存在、それも捉えて離さない「眼差し」の方が強い。