デューイ?


真夜中の新宿。ギャラリーの傍にあるコンビニで雑誌を立ち読みしていると、体格のいいお姐さんたちがキャッキャとさわぎながら入ってきた。
「やだーあなたってどうしてそーなの゛ーー」
いつもはあまり意識していなかったけれど、そういえばここは、二丁目だった。
陽の高いうちは固く閉ざされた鉄扉が闇夜とともに開かれるとき、体格のいい方たちも動き出す。


雑誌から目を離せない自分がいた。
緊張するのはなぜだろう。



先の甲斐君の論考を少し考えていて気がついたことがひとつ。


 マイケル・フリードトートロジー(「この写真の意味は、『これは写真である』ということである」)は、プラグマティズムの、ひいてはジョン・デューイの真理対応説および真理整合説とごく近しいということ。

 元をただせばアリストテレスの『形而上学』にさかのぼるわけだが、アメリカ哲学の伝統という観点からすれば、おのずとプラグマティズムの系譜にぶつかることになる。フリードと旧知の仲である批評家バーバラ・ローズは、60年代のアカデミズムにはデューイの亡霊がまだはびこっていた、と自著のなかで回想していることからもうかがい知れる。


 命題は事実と対応するときその命題は真理である、とするのが真理対応説であり、ある命題が一般に認められている他の命題と整合的であるとき、その命題を真理とするのが真理整合説である。真理整合説にはある程度の客観性をもとに*1事実に対する整合的判断として真理を導き出すが、そこに感覚的経験の介入はほとんど存在しない。事実は私たちが感じとった経験をもとに確認されうるわけで、真理対応説によって補われる必要がある。写真って言われているのはこういうものなのか、という具合に。


 だがその真理対応説にも、対応することを証明する他の対応を導き出さねばならず、それは無限に後退する論理の陥穽に落ちてしまう。だがデューイは「対応」という用語を拡大解釈して「問題を解決すること」とした。「真理とは、検証過程をはじめる観念にたいする名前であり、有用とは、その観念が経験において果たした役割に対する名前である。」と述べたウィリアム・ジェイムズに、デューイの「対応」解釈はもとづいている。


問題解決の可能性を命題がもっているのだとしたら、その命題と因果関係にある事実は真理である。こうした事実判断を確証できれば、価値判断もまた決定できるとしたのがデューイだ。問題解決は人の能動的な意思に関わり、知性によってコントロールされる。一連の組織された経験の束が、人を満足させること、つまり「美」につながる。しかもこの経験は日常的な、習慣化されたものにより大きな比重を占めている。さてかなり遠回りしたけれど、この「日常・習慣」にフリードが着目した「没入」が関係してくることになる。




now underconstructing...

*1:ある程度、というのは他の命題が「一般に認められている」ということと、客観性を証明することとは必ずしも一致しないからだ